【鉱山遺跡としてはアジアで初めての登録】
石見銀山遺跡とその文化的景観(いわみぎんざんいせきとそのぶんかてきけいかん)
石見銀山で生産された大量の銀は、アジアだけでなくヨーヨッパ諸国との経済的、文化的交流をもたらしたこと。
石見銀山では、採掘から精錬まで小規模で行われたことから、鉱山開発や銀生産にかかわる遺跡が良好に残されていること。
石見銀山遺跡は、環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価され、2007年7月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、国内では14件目、鉱山遺跡としてはアジアで初めての世界遺産に登録されました。
大森代官所跡上空から大森の町並みと銀山「仙ノ山」を望む 提供:太田市教育委員会
構成資産は島根県のほぼ中央に点在する次の14資産。
銀鉱山跡と鉱山町
銀山柵内(ぎんざんさくのうち)
代官所跡(だいかんしょあと)
矢滝城跡(やたきじょうあと)
矢筈城跡(やはずじょうあと)
石見城跡(いわみじょうあと)
大森銀山(おおもりぎんざん)
宮ノ前地区(みやのまえちく)
熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)
羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)
鉱山と港をつなぐ街道
鞆ケ浦道(ともがうらどう)
温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)
銀を積み出した港と港町
鞆ケ浦(ともがうら)
沖泊(おきどまり)
温泉津(ゆのつ)
登録地域の面積は、構成資産529ヘクタール、それを保護する緩衝地帯3,134ヘクタール。
「大久保間歩」の内部 提供:太田市教育委員会
鉱山遺跡としてはアジアで初めての登録
石見銀山では、16世紀~17世紀に大量の銀が採掘された。特に、17世紀前半の全盛期には年間約1万貫(約38トン)と推定され、世界の産出銀の3分の1を占めた日本銀のかなりの部分を産出していた。
世界遺産に登録されている鉱山遺跡は、欧州や中南米に15箇所あるが、アジアにはなく、アジアで初めての登録となった。また、産業遺産は18世紀末の産業革命以降の遺跡が多いなか、産業革命前の鉱山遺跡としては稀有の遺産といえる。
石見銀山は、鎌倉時代末期に見つかったという伝説もありますが、正式な歴史は、1526年に博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)が発見したところから始まります。寿禎は大内氏の支援を受けて銀山を開発し、海外からの銀精錬技術「灰吹法(はいふきほう)」を導入しました。これによって銀を効率的に得られるようになり、日本の銀産出において多大な影響を与えました。
「代官所跡」 提供:太田市教育委員会
その後、毛利元就と尼子氏の間で争奪戦が繰り広げられ、結局は毛利氏が石見銀山を得ます。江戸時代になると幕府による開発が行われ、江戸時代前期には銀の産出がピークを迎えました。
銅も一緒に産出していましたが、元禄期を境に産出量が減少し、地震や銅価格の下落、坑内の環境の悪化により、1923年に休山となりました。